君がいる、この場所
「ただいま。姫君。」
「あ!ヒノエくん!お帰りなさい。」
ヒノエが屋敷に帰ってきたのは真夜中。
熊野別当である彼が仕事で忙しいのは当たり前だった。
いつも帰る時刻は夜中を回る。
望美はそんな彼をいつも遅くまで待っていた。
眠いはずなのに、笑顔で迎えてくれる。
ヒノエは、それがとても嬉しかったが、彼女の目元にクマが出来る事を考えると早く眠ってくれてる方が嬉しかった。
「望美。こんな遅くまで待っててくれるのは嬉しいんだけどね。眠くないのかい?」
「え?全然平気だよ?」
ヒノエの心配を余所に望美は元気な証拠にニッコリ笑う。
そして、ガタガタと辺りを片付け出した。
よく見れば周囲には裁縫道具や布がある。
「望美。何をしていたんだい?」
ヒノエはそう言いながら布を一つ手に取る。
それは使い古された手ぬぐいを四つ折にして丁寧に縫われたものだった。
「何って、雑巾を縫ってたんだけど?」
と、望美は答える。
「要らない手ぬぐいとか、古くなった着物とかでね。いっぱい作っちゃった。」
エヘヘと、自慢げに望美はそれを見せた。
確かにそれは力作で、とてもキレイに縫われている。
だが、ヒノエは「はぁ〜。」と溜息を吐いた。
「なぁ。望美。そういうのは使用人にやらせれば良いだろう?何もこんな遅くまでしなくても。」
ヒノエの言う事も一理ある。
望美はヒノエの嫁として熊野にやってきた。
熊野を収める別当の妻として。
周囲は皆、『龍神の神子』である彼女を崇め、熊野を守り続けてくれる神のような存在で見ている。
貴族の姫のようにお願いしなくても誰もが望美に世話を焼いてくれた。
それはとても有難い事ではあるし、嬉しくもある。
けれど望美は元々「お姫さま」では無いのだ。
只の一般人であった望美にとっては、逆に萎縮してしまい申し訳ない気持ちになる。
それに、望美も譲れない事があった。
「だって。ヒノエくん。私、ヒノエ君の奥さんなんだよ?」
少しむくれた顔で望美は言った。
「奥さんらしいこととか、したいんだもん。」
掃除も、洗濯も、料理も。
きっと使用人の人達は自分の何十倍も上手なのだろう。
望美が下手に手を出すより、任せておいたほうがずっとイイのかもしれない。
けれど。
自分はヒノエの『妻』なのだ。
ご飯も作ってあげたいし、掃除、洗濯。何でもしてあげたい。
ヒノエのために。
「でも、ヒノエくんが嫌ならもうしないよ。ごめんね?」
望美は淋しそうに、持っていた雑巾を置いた。
すると、ヒノエが突然望美を抱き寄せる。
その勢いのまま、望美はヒノエの上に覆いかぶさるように倒れこんだ。
体を起こそうにも倒れた姿勢のままヒノエの腕は望美をしっかり捕まえる。
「ゴメン。別に嫌なんかじゃないさ。お前が俺の為にしてくれたんだろ?」
ヒノエは優しく微笑み望美を見つめる。
「ただ、慣れない土地で、慣れない事をして。お前が嫌になってしまったらどうしようかと思ったからさ。」
帰るべき場所を諦めて、付いてきてくれた彼女に無理はさせたくなかった。
もしも、帰りたいと言われた時に、ヒノエはその願いを叶えてあげれる事はきっと出来ないから。
彼女を手放す事など、出来る自信は無い。
そう弱気なヒノエが少し拘束を緩めた。
望美はそこから片腕を取り出すと、ヒノエのおでこを軽く叩いた。
ペチリ。
全く痛みは無いが、突然の事にヒノエは目を見張った。
「ヒノエくんのお馬鹿さん。」
望美はクスクスと笑う。
「嫌になんかならないよ?だって、私。熊野が好きだもの。」
そう言った後、「あ。違う!」と望美はさっきの台詞を言いなおす。
「ヒノエくんのいる熊野が、一番好き。」
暖かな笑みを望美は向けた。
「・・・・望美。」
「だから、絶対に嫌になんかならないよ。分かった?」
言い聞かせる母親のよう。
ヒノエはクスリと笑った。
「肝に銘じておきましょう。姫君。」
そして、どちらかともなく唇が近づく。
甘く、とろけるように口付けあった。
「俺も、好きだよ。」
唇寄せたままヒノエは呟く。
「お前のいる熊野が、今までで一番好きだ。」
そのまま、口付けを再開した。
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