君の名前
出雲に入ってからこちら、布都彦は大きな問題に悩まされていた。
ここは常世の国が支配している土地。
今、一行は出雲領主に接見するために村へ急いでいる最中であるのだが。
彼らが中つ国の残党である事を知られれば一大事であることは陽を見るよりも明らか。
しかも、その中にニノ姫が居ると知られれば大事である。
なんとか正体をばれない様にする必要があった。
そこで案じた一計は旅の一座に扮すること。
身なりも姿形も、まちまちな彼らにとってはこれは確かに良い案だった。
そして、同時に提案された事が一つ。
千尋を『姫』と呼んではいけない。
これが今、布都彦を悩ませる理由であった。
布都彦は休憩に立ち寄った村で皆から離れて座っていた。
そして、ブツブツと小声で何かを言っては頭を抱えるといった行動を繰り返していた。
「ち・・・・・・・ちひ・・・・・・・ちひ・・・・・・ち・・・・・ひろ。」
上手く言葉をつなげられない。
布都彦は「はぁ・・・・。」と盛大に溜息をついてうつむいた。
そもそも、彼は千尋に出会ってからずっと『姫』と呼び彼女を敬ってきた。
元は中つ国の王家に仕えてきた家柄なのだ。
いくら歳が近いからといって名前で呼ぶなど言語道断。
『姫』と呼ぶのが当たり前である。
しかし、今この地で千尋を『姫』と呼んではいけない事は重々承知している。
嫌だとは、言ってられない。
自分一人の行動で皆を危険に巻き込むわけには行かないのだ。
布都彦は、今度は深呼吸をする。
落ちた気持ちを持ち直すように。
「ち・・・ひ・・ろ。・・・・・・・・千尋・・・・・。」
小さく、しかし先程よりはしっかりとその名を口に出来た。
が、途端にカァッと顔が熱を帯びる。
ただ、名を呼んだだけなのに。
この胸を締め付ける甘い痛みと熱は何なのだろうか。
不思議で、けれどもう一度確かめたくて布都彦はまた、彼の名を呼んだ。
「・・・・・・・千尋。」
「なぁに?」
呟いたと同時に背後から思いがけない返事が返って来て、それに布都彦は驚き、飛び上がった。
いつの間にか隣に来ていた千尋は、布都彦の驚きように釣られて目を大きく開いた。
「ご、ごめん。布都彦!」
「い、いえ。」
布都彦はバクバクと暴れる胸に手を添えて自身を落ち着ける。
その隣で、千尋は心底申し訳なさそうに布都彦の様子を伺った。
少し落ち着いただろうか?
千尋は覗くように布都彦の顔を見る。
「あの・・・・・・。ホントごめんね。」
「いえ・・・・・。お気になさらず。」
謝罪と擁護を言い合うと、どちらからとも無く無言になった。
若干、きまづい空気が流れる。
それを打破するように口を開いたのは千尋だった。
「えっと・・・・・布都彦は何をしてたの?」
皆から一人離れて、背を向けて。
何か悩み事でもあるのだろうか?
気になって、千尋は彼に声をかけたのだった。
その問いの答えに布都彦は窮した。
恥ずかしい、というか情けなくて言い難い。
けれど、他の誰でもない『姫』のお言葉。
布都彦は羞恥を堪えて返事をした。
「その・・・・・・練習を・・・・・・。」
「練習?」
問い返して、途端に千尋は先程の布都彦を思い出す。
小さく、彼が呟いた声は『千尋』と言っていた。
すると、その練習の内容とは。
「もしかして、私の名前を呼ぶ練習?」
「さ、左様でございます。」
イッパイイッパイの羞恥心を堪えるように布都彦は赤らめた顔を俯ける。
恐れ多いとはいえ、『名前を呼ぶ』というだけの事が出来ない自分が情けない。
姫はこんな私を呆れるだろうか?笑うだろうか?
千尋の反応が怖くて布都彦は目を閉じた。
すると、視界を無くした彼の耳に「う〜ん・・・・。」と真剣に悩む千尋の声が入ってきた。
布都彦は閉じた目をそっと開いて千尋を見る。
「そうだよね・・・・・。布都彦は私を名前で呼んだこと無かったもんね。」
千尋は呆れるでもなく、笑うでもなく。
柳眉を寄せてただ、悩んでいた。
「・・・・・お叱りにならないので?」
「????どうして?」
「いえ・・・・。その。私の不甲斐無さに。」
すまなそうな布都彦に千尋は悩み顔を笑顔に変えて答える。
「だって、急に呼び方なんて変えられないでしょ?私だって、風早の事『先生』って呼ぶように言われてても
つい、『風早』って呼んじゃうし。仕方ないわ。」
呆れるでも、笑うでも、叱るでもなく。
ともに頭を悩ませてくれる千尋の姿に布都彦の惨めな気持ちが色焦る。
「・・・・・やっぱり練習あるのみよね。付き合うわ。」
「え!?」
「じゃあ、私を見て呼んで見て。」
「わ、判りました・・・・・。」
布都彦は大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着かせる。
まるで、戦いの前のように平静を保って、目の前の千尋を見つめた。
「・・・・・・・・千尋。」
柔らかでいて、力強さを含んだ声と
真っ直ぐで澱みの無い緑の瞳に。
千尋は捕まったような錯覚を覚えた。
頑迷で懸命な眼差しに鼓動が思わず早鐘を打ち出す。
声を無くし頬を赤らめた千尋を見て、布都彦の胸もトクトクと駆け出して。
触れたい欲求が無意識に彼の手を動かし、千尋の赤い頬を撫ぜた。
抱きしめてしまいたい。
そう、意識したとたんに布都彦は我に返った。
素早くその触れた手を離す。
それと同時に千尋もはっと気付く。
「も、申し訳ありません!!!」
今にも土下座しそうなほど頭を垂れる布都彦を千尋は慌てて止めた。
「だ、大丈夫!ほ、ほら!ちゃんと呼べたじゃない?ね!?」
「さ、左様でございますね。」
二人、ぎこちない顔と声で互いに平静を装った。
ドキドキと忙しない鼓動を悟られないように。
誰に名を呼ばれても、こんなに胸が壊れそうになった事など無い。
千尋はその所在が分からなくて、胸元を抑えた。
「そ、その・・・・・・。そろそろ皆の所へ参りませんか?」
「う、うん。」
茹でタコのような布都彦がそう、提案すると千尋も頷く。
胸に湧いたくすぐったい感情を秘めながら。
〜あとがき〜
彼らを見ると、自分の汚れ具合が浮き彫りになって申し訳ない気分になります。

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